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皇室への適応障害と学校への適応障害


社会や学校で適応不全の人たちを、カテゴライズしていく、、、っていうことはありがちな事。
自らの健全さは、適応不全の人を指摘することによってより明確になるからね。
自らの社会的アイデンティティを追求すればするほど、社会的不適応の人々が必要になる、、、なんてね。

でも、よおく考えると、なんかおかしいのよね。
たとえば、今回の雅子様騒動。
彼女は<適応障害>という聞き慣れない病名を与えられているけど、
皇室に入る前は環境に適応/順応していてとてもはつらつと人生を送っていたんだよね〜。
でも、皇太子と結婚してからは皇室という環境に<適応>出来なくてストレスをため込んでしまった。
彼女が選択したのだから、その悩みは彼女自身が解決すべきものだとして、それにしても、
環境がいかに個人の精神に影響するか、、、と言う、見事な例。

ある環境に入ったものの、どうしてもそこに適応できなかったら、どうすればいいんだろう。
適応不全なんていうへんちくりんな病名を与えられながら、それでも徐々に適応していくしかないんだろうか?
そんなことはないはず。
今、雅子さんには<皇室>に適応するための道のりしか与えられていないような言説ばかりだけど、
実際には彼女は選択する事ができるはず。
たとえば、離婚する事だって。(憲法では皇太子や皇太子妃についての条文は一切ないし。)
でも、その選択肢は、彼女に取ってはまったく現実的じゃないんだろうな。

同じような事が発達障害をもつ子供達にも起きているのかなと思う。
幼稚で残酷な子供達がぎっしり囲われてて、
単調な授業が延々と続いて、
周囲から少しでも浮くようなことをすれば、ばい菌よばわりされたり、いじめにあったり、
よそ見をしたり、きちんとノートとれなかったりすると先生にさえ疎まれたり、
およそ彼らが苦手とする事ばかり強要される、学校という環境が彼らにとってどれほどストレスフルか
ちょっと考えるとすぐにわかる。

なんつーか、結構自分で自分の選択肢を狭めてしまうんだね。
いや〜〜反省反省。
by yyymotot | 2004-09-30 22:27 | Diary
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